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おれの山、おれの道

生半可なおっさんが主観的に山登りと人生を語るブログ

己を晒して人と関わること。

 

己を晒して人と関わること。

人生を有意義に、面白くするには、それは不可欠なことだと思う。

自分を隠し、当たり障りのないところで人に関わっても、その関係からは当たり障りのないものしか得られない。

自分が本当に欲しいもの、出会いたい人には、己を晒してぶつかってはじめて出会えるものなのだ。

ブログを書くにあたって、それはひとつの重要なテーマである。

 

己を晒して言葉を連ねることというのは、やればやるだけ墓穴を掘っていく行為のようにも思える。

自己顕示欲の強いバカに見えるかもしれないし、誤解されることのほうが多いかもしれない。

だが、自分を出さなければ、自分の思うところを伝えたい相手に伝えることはできない。

もし心の中に何かしら信じるものがあるのだとしても、表現されなければそれは無いのと同じだ。

 

振り返って自分はどうかと見てみれば、長いことその辺を避けて来たように思う。

意識してそうしてきた面もあるが、いつの間にか染み付いてしまった感も否めない。

 

仕事にせよ人間関係にせよ、スムーズにこなしたければそのためのやり方がある。

その場で求められる役割を踏まえ、効果を得られるところに自分を限定して振舞うのが一番効率がいい。

自分の中のその場に必要ない部分、面倒くさい部分を切り離すことができるなら役割を果たすにはその方が都合がいいのである。

だが、どちらかといえばそのスムーズにいかない面倒くさい部分こそがおれをおれたらしめているものなのだ。

 

何でそんなことに執着しているのかといえば、おれ自身がその「面倒くさい部分」の比重が大きい人間だという自覚があるからだ。

仕事などで世間と向き合うにあたっては、そこをバッサリと切り捨てている。

それで楽な面もあるがその反面、自分の中にモヤモヤしたものが溜まっていく感じがある。

そんな状況を変えていきたいという気持ちはここ数年、おれの中でどんどん強くなってきている。

ブログなど始めたのもその辺と無関係ではない。

山のブログということでやっているけれど、根本的な動機はそんなとこにもあるように思う。

 

まあ、どちらかというと色々「こじらせて」きた人生。

f:id:yoshixim:20160322202700j:plain己の考えに固執し、高校を中退して17歳の時に家を出たのが始まりで「自分」というものに重きを置き過ぎて孤立し、やがて社会とうまく折り合いがつかないような状況に陥った。
(画像は17歳当時。この頃の画像はこれしかない)

 そしてあれこれと煩悶するうちに自分のこだわりが「甘え」や「言い訳」のようなものに感じられ、そのまま素直に信じられなくなった。

「本当の自分とかいうけど、それを言い訳にして逃げてるだけなんじゃないの?」と思い至り、その状態から脱するために、世渡りにあたっては「自分」を切り離し、その場の要求に「自分」を抜きにした最適な対応をとることに徹してみようと決めて、今に至った次第である。

 

結果。

 

曲がりなりにも一応は世の中で生きる術を得ることはできた。

人並みに社会の中で糧を得て、守るべき家族まで持つことができた。

 

それで、世渡りには無用と切り捨てられた「おれのおれたる部分」はどうなったのかといえば…

 

それは日陰に追いやられつつも、今も変わらずおれの中で元気に息づいているのである。

 

それならば。

 

さすがにもう、そいつを信じてやっていい頃なのではないかと思うわけだ。

たとえそれが不細工なものであっても、己を晒して生きていこうと。

それでおれを嫌う人がいても、避ける人がいても、仕方がない。

そう腹を決めて自分を表現するところから始めたいと思っているのだ。

 

だからと言って「ありのままの自分を受け入れて欲しい」などと赤ん坊のような衝動を振り回すわけにはいかない。

社会に関わる大人である以上、赤ん坊であって良いわけはない。

己を晒すのであれば、きちんと説得力ある形でできるよう鍛錬も必要だろう。

そしてその努力の先でそれが受け入れられた時、自分の本当に言いたいこと、伝えたいことが伝わった時、おれにとっての本当の喜びはそういうところから生まれてくるものなのではないかと思うのだ。

 

別に大きいことをやりたいわけではない。他に抜きん出たいわけでもない。

自分というものにもっと正直に、フラットに、自然体で生きていきたい。

そのためには、自分の信じるものを体現してゆく必要がある。

何が欲しいのか、どうありたいのか。

もう一度、自分の心の声に耳を澄ます必要がある。

 

おれは単細胞なバカであるが、そうは言っても「自分」という存在はそんなに単純なものではない。

表も裏も、本音も建前も併せ持ち、高い理想と同時に下衆な欲求を持ち、条件反射から深層心理までの諸々を内包したわけのわからん小宇宙である。

 

それらにどれだけ深く向き合えるか、そしてそれを踏まえて自分の意思でどのように行動できるかということで、人の器が決まるんだと思う。

まあ、自分の器というのはある程度わかっている。

高望みすべくもないが、おれとしては、誰かと競うのではなく、自分にとってより良いあり方を見出したいと思う。

 

どこに到達したいという具体的なビジョンはまだ描けていない。

だが、これが欲しいと感じることはある。

これは嫌だと感じることはある。

そういった感覚になるべく忠実に自分を表現し、共感出来る人とのつながりが生み出せたら、その先に気分良く生きていける場所が見つかるかも知れない。

そしてそこから自分を超えて、この世の中や未来に向けて、ほんの少しでも自分が人として生きれたことの恩を返すことができればそれ以上を望むべくもない。

 

随分長いこと心のブレーキを踏んだような状態で生きてきたので、かなり覚束ない感じだ。

自分を晒すというのは正直かなり恥ずかしく、時には恐怖を伴う行為ですらある。

自然体とか言いながら、物凄く無理をしているような気もする。

正直、止めといた方がいいんじゃないかという気持ちが半分ぐらいある。

だが、その道を行こうと思ったら簡単に引き返すわけにもいかない。

そんな次第ではじめに言い訳をさせてもらったわけである。

 

課題は山積だが、一歩一歩、自分の望む方向へにじり寄るように人生をシフトしていきたいと、おれは思っているわけだ。

そのために少しずつ、自分のことや今後の展望などについて、言葉にして晒す努力をしていきたいと考えている。

 

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