おれの山、おれの道

生半可なおっさんが主観的に山登りと人生を語るブログ

登山とは何か? 語ってみたかったので…

年頭一発目ということで、登山について語りたいと思う。

というか、年頭というには遅すぎな感じではあるが…

 

登山とは何だろう?

スポーツだろうか、旅だろうか?

 

いや、それ以前に読んで字の如く、登山とは山を登ること、そこに山があることが前提となる行為である。その行為の中に、ある人はスポーツ的な要素を見出して目的とし、またある人は旅的な要素を求めて山に出かけて行くのだろう。

 

スポーツにも旅にも様々なスタイルのものがある。

登山というのは単純に山を登る行為でありながら、スポーツでもあり旅でもある。

確かなことがあるとすれば「山」がなければ始まらないということだ。

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スポーツをしたいなら、山がなくてもできる方法は山ほどある。

旅にしても同じだ。

そういう意味では登山をする人はスポーツをしたいのでも旅をしたいのでもなく、登山がしたいのである。そこには登山にしかない特別な何かがあるはずなのだ。

 

しかしそれも各人各様、趣味として、レジャーとして気軽に楽しめばいいと捉える向きも当然あるだろうし、そう見れば「登山とは何か?」などと畏まって問うこと自体がナンセンス!と言えるだろう。

おれが語れることは「おれにとっての」という前置きのついた登山だけ、矢鱈小難しく考えたがる男の戯言と言われればそれまでのような話なのであるが…

まあせっかくなので語ってみたいと思う。

 

誰に強制されたわけでもなく、何かと競っているわけでもなく、はっきりとした見返りがあるわけでもない登山という行為になぜおれは向かうのか。

その問いに思いを巡らしていると、いつしかそこに「なぜ生きるのか」という問いが重なる。

 

おれにとっては結局その辺は不可分のようである。

いい運動をしていい汗をかいたり、いい景色を眺めたりいい空気を吸ったり美味い飯を食ったり、危険な岩場を登ってスリルを味わったりそれを乗り越えて山頂に立って達成感を得たり、下山していい湯に浸かって美味いビールを飲んだり。。

 

登山を通じてそういった素晴らしい体験ができるわけだが、それらのご褒美を求めて登山をしているのかと問われれば決してそうではない。少し極端ではあるが、言ってしまえばそれらはあくまで「おまけ」に過ぎないものだ。

 

登山という行為の本質はそれらのご褒美の中にあるのではない。

あくまでそれはもっと別の、もっと深いところにある本質的な目的に近づくための手段でしかないのだ。

その手段を借りて、様々なご褒美を得ながらおれが登山を通じて獲得したい「本質的な」ものとは何か?

 

一言で言い切れるものでもないのだが、強いて言うなら、おれは登山という行為を通じて「自分が存在していることの実感」みたいなものを得たいというか… たぶんそんなことが根本的な部分でのモチベーションとなっているように思う。

まあ、言う割にやっていることはユルいもんで、その言葉を裏付けるような大した登山体験を持つわけでもないのだが。

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しかし、旅でもなくスポーツでもなく「登山」を志向する人の中には多かれ少なかれ、揺るぎない自然と対峙することで人間という不自然な存在である自分に何らかの作用をもたらしたいという思いが潜んでいるような気がするのである。

 

日常と切り離された不自由な場所で、自分に困難な条件を課しながら人としての営みを行うことを通じ、日常の中に埋もれた「自分の存在」を再確認する行為。そのフィールドとして山を借り、ルートや目標を設定して行動するなかで、反自然的な人間という存在が実際は自然の産物なのだという事実と向き合うこと。

時に己の中で世界の全てとなるほどに肥大した自我がその自然の中でいかにか弱く不完全なものであるかということを再確認すること。

 

その辺の事象のあり方を明確な体験として実感することで、日常の営みの意味を確認し、新たな意味を付与していく。

 

登山という行為は野生・自然と向き合う行為でありながら、それは非常に人間的な行為である。野生や自然というものは意味など問わずに常にあるがままに存在しているだけであり、そこに意味を問い、見いだすのはのは人間だけだ。

ある意味一人相撲のようなものである。

生きるということの意味、人間という存在の意味。地球環境、自然環境の意味。意味というものの意味。それを求めるのは人間だけだ。

 

「意味」というのは自明に存在するものではない。人が人として存在するために便宜上作り出されたものだ。

一寸の虫の存在に意味が無いと見るなら同じように一個人の存在にも意味はないのだ。地球環境を守る意味も根本的にはない。宇宙の中の塵芥と見れば地球が消滅してもこの世界に何ら影響は無いわけで、その存在に意味などないのである。

 

地球環境を守りたい、生態系を保護しなければならないとすれば、その理由について「人間のために」という答えしか人間は持ち得ない。それと同じくおれは「おれのために」という答えしか持ち得ないのである。

人間は人間以上のものではないのだから人間にできることは所詮人間のためのことなのだ。

 

しかし人間はそういった事実を認識しつつもなお「人間」として存在している。

本質的にはその存在に意味などない。人が人として在るためにその「意味」は作り出されたものなのだ。

にもかかわらずほとんどの場合、人はそれを疑うこともなく当たり前に受け入れて生きている。

 

たぶんその辺に疑問を感じやすいのだろう。日常のなかで感じる違和感が自明のように思える意味を不確かなものにする。その意味の主体である自分の存在が登山を通じて浮き彫りになることで、曖昧にぼやけていた世界に対するクリアな視点が得られるようになるのだ。

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雄大で美しく、時に厳しく、場合によっては命を危険にさらす山という場に自分を放り込み、否応なく訪れる試練の前で己を確認することで、存在の意味、与えられた命の意味、その有限性とそれゆえの美しさ、それを活かして生きることの意味を一個人として見出していくこと。

それが登山によってもたらされる一連の作用のように思う。

もちろん登山者のレベルによってそのフィールドも変わってくるだろう。

厳冬期のマッキンリーに単独で向かうことで己を試そうとする冒険家もあれば、奥秩父あたりの一般ハイキングコースで立ち尽くし己の身の程を知る者もある。

 

やっていることのレベルには雲泥の開きがあるにせよ、現状から一歩でも先に進もうとする意思で向かう者に、山は無表情のまま、しかし分け隔てなく何らかの見返り(返答)を与えてくれる。それは時に「死」という形をとるかも知れないが、その可能性までも秘めたフィールドに分け入ることで人間の存在や日常的な行為が輝きを取り戻すのだ。

おれにとっての登山とはそういうもの… のような気がしている。

 

以上、年頭から面倒な考えに捉われて、何らか結論めいた意味ありげなことを書いてやろうなどとスケベ心を出したおかげで収拾がつかなくなり、おかげでこのプログも随分と停滞してしまった次第なのだが。

それを放置したままでは先に進めない感じなのでとりあえず半ば無理くり形にしてみた次第である。

 

あくまで一人で山に出かけていくおれの個人的な登山についての思いであり、書いているうちに気持ちよくなって脱線したり盛りすぎてしまった感もあるが、おれとしては要するに、登山という行為の内にある、レジャーや趣味といった範疇を超えた、人の根源的な何かに働きかける魅力について自分なりの言葉で記してみたかったのだ。

 

登山って本当に素晴らしいですね、と。

 

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サバイバル登山入門

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最近テレビなんかでも取り上げられる機会が増え、気難しい変人的な印象を振りまいているようにも見えるが、書かれたものを読む限り大変優れた考えを持った登山家としておれ的には好印象の人物だ。

近いうちにこの人についても書いてみたいと思っている。。